毎日うだるような暑さですが、日本列島の中でも北海道なんかは最高気温26度くらいで、すごしやすい気温です。だとしたら、人の感覚というものは、さも相対的なもので、自分の感覚だけが正しい、これが常識だと思うのはあやまった感覚なんだろうなと今日も自戒を繰り返す日々ですが、みなさまいかがおすごしでしょうか。

先ほど、人の感覚というのはひとそれぞれ、「十人十色」どころか何万色、何億色もそれぞれの感覚、正しさがあると言いました。そんな中CREA/Meという場所では、「クリエイターの教育」ということを行ってます。「クリエイター」も定義が難しければ、「教育」も定義が難しい。そもそも何をもってクリエイターなのか、何が教育なのかという問題にぶちあたります。結論をいうと「そんなものはできない」ということになります。できないというより必要がないといったほうがいいような気がします。

では、CREA/Meという場所や存在は嘘をついてるのでしょうか。そんな大げさなことを掲げて取り返しがつかなくなってる可能性もなきにしもあらずですが(笑)、いやいやそんなことはないのです。先ほど「人の感覚は相対的なものだ」といいました。つまり「その人自身が何か学びになるような」「学んだと思えるような」体験や経験、そして選択肢、そういうものを提示することで「教育のような」ものがおこる可能性は十分にあると思ってます。

僕はよく仕事を「恋愛」だったり「音楽活動」だったり「スポーツの試合」だったりに例えます。詳しいことは割愛するのですが、恋愛ですらその中に多くの学びや気づきがあり、それを自分ごとにとらえた人間が成長し、たとえそれが失敗であったとしてもうまくいく過程だったのだと納得し、人生の豊かさにつなげていける人もいます。そうなると恋愛はその人にとっては「教育だった」と言い換えることもできます。それをどうとらえるか、どうみるかという「感性」それを養うことこそが自分の考える「教育」というものの正体にほかなりません。

では「感性」とはなんなのか岡本太郎さんは次のように言ってます。

 

「感性をみがくという言葉はおかしいと思うんだ。感性というものは、誰にでも、瞬間的にわき起こるものだ。感性だけ鋭くして、みがきたいと思ってもダメだね。自分自身をいろいろな条件にぶつけることによって、はじめて自分全体の中に燃えあがり、広がるものが感性だよ。」

感性そのものには実体がなく、どんな道具をつかってもみがけるものではない、と暗に言ってるように思えます。本当にその通りだなとこの歳になってだんだんわかってきました。いわゆる学校では技術としての正しさを教え、卒業することの正しさとして就職を教えます。けれどそれは何億人何億通りの正解とはなりえない。だとしたら、本物の教育とは、それを教育だと受けとめられる感性を養うものがあるとすれば、それは日々の体験や経験、つまりは「挑戦」や「人との出会い」の中にしかないのではと思うのです。そういうことを繰り返して単におしゃれなだけではない、単にかっこいいだけではない、本質的な「感性」というものを学んでいく。岡本さんはさらに次のように言います。

「うまくあってはならない、きれいであってはならない、ここちよくあってはならない」

岡本太郎さんは芸術はという主語をつけていますが、これは何にでもあてはまる本質を示す言葉のような気がして僕自身とても大切にしています。本当の意味のうまさやきれいさやここちよさを追求するには、表層的なうまさやきれいさやここちよさは不要なのだと。本物は本物にしかやどらないし、そこを見極める感性こそがクリエイターにとって大切な要素だと思うのです。そんなことをまっすぐに愚直にされている尊敬する高知のデザイナー梅原真さんの近著もぜひあわせて読まれるとさらにその感覚が何を言おうとしているのかつかんでもらえると思います。

といろいろ書き進んできたのですが、じゃあその「クリエイター」ってそもそもなんなの?という大疑問について自分が考えたマトリックスを用いて次回のブログで大胆に分析してみようと思います。あくまで僕の考えるクリエイター像とはこれだをお届けしていくつもりです。

本日もありがとうございました、藤原聖仁でした。


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